GoldenPhoenixRecords

Rachelle・水沢よりアナタへ

作品と作者の関係性についての個人的意見(小山田なんちゃらの事件に寄る)

作品と作者の関係

 

この話題一つだけで、おそらく本棚が何台も埋まるほどの著書が執筆されているんじゃないかと思う。

「アート作品を享受する時、作者の人格・品位はどれほど重要か」という問題に対する答えは人の数と同じだけあるだろうし、おそらくその一人一人がこれまた「どの作品とどの作者の間柄についてか」によってこれまたたくさんの答えを持っていると思う。

 

私が大好きなテイクザットの現メンバーのGary、Mark、Howardの3人は、2012年に脱税疑いのある違法な投資を行なっていたとして2014年5月に追徴課税を行うよう裁判所命令を受けている。(2010年のフルメンバー再結成によってアーティストパワーを取り戻しており、これ以上の再結成に関わる必要を感じていなかったであろうロブは別として、)ショウビズ界が肌に合わなかったであろうジェイソンの脱退が報じられたのが同年9月。追徴課税命令のニュースで3人の名前だけが上がっていた時から、おそらく一部のファンはジェイソンと他の3人の間にある意識の差、ひいてはジェイの脱退の予兆に気付いていたのではないだろうか。

とにかく、キャリアを通じておおむね品行方正だった彼らのこの喜ばしくないニュースが、テイクザットの(当時の)新譜を楽しみにしていた私の心に少なからず影を落としたことは事実だ。今でも彼らが3人になってからの作品を聴いたりライブ映像を見たりすると、件の事件が頭をよぎる。2016年に上訴しない意向を公にしてファンへ謝罪したというニュースは、最初に脱税疑惑が告発された時ほど大きくは報道されなかった。

 

R&Bシンガーのクリス・ブラウンは2009年のグラミー賞前夜、当時交際していたリアーナへの暴行により逮捕(自首ではあるらしいが)された。リアーナの大ヒット曲”Umbrella”にブラウン氏が参加したCinderella Remixや彼が制作に参加してリアーナが歌い、やはり大ヒットした”Disturbia”を愛聴していて、二人がグラミーの舞台で共演するという事前情報に胸を躍らせていた当時の私にとって、この事件が起こったこととその後インターネットに浮上した事件直後の、瞼や頬が腫れ上がったリアーナの顔写真はとてつもない衝撃だった。おそらく世界中の人々が同じように衝撃を受けたであろう。当時、既にSNSが一般の人々にまで浸透しきった頃だったことも相舞って、メディアやセレブ達のブラウン氏への批判は凄まじいものだった。

不思議なことに、当のリアーナは数年後にまたブラウン氏との交流を再開、リアーナの”Birthday Cake”とブラウン氏の”Turn Up The Music”ではお互いが客演した公式リミックスが発表され、リアーナのアルバム『Unapologetic』にはブラウン氏が制作した”Nobody’s Business”という二人のデュエットまで収録されている。マイケル・ジャクソンのヒット曲”The Way You Make Me Feel”の印象的な歌詞をサンプリングしたこの曲で二人が「私と私のベイビーだけの問題、他の人は余計な首は突っ込まないで」と歌うのを聴いた人で、ブラウン氏の暴力事件を思い起こした人は私だけではないと確信している。

元々ブラウン氏もリアーナもデビュー当時から愛聴していた私としては、二人がハッピーならそれでいいと思う部分がある一方で、「二人が二人の間で起こったことをどう消化しようと、自分がクリス・ブラウンの名前を、曲を聴く時にあの暴力事件を思い出さないことは今後一生ないだろうな」とも思っている。クソが。

ブラウン氏にはRoyaltyちゃんという娘さんがいる。2015年にリリースされた彼のアルバム『Royalty』は愛娘に捧げたアルバムだそうだ。アルバムカバーでブラウン氏に抱っこされている赤ちゃんがそのロイヤリティちゃんだ。彼女はリアーナの音楽を聴くのだろうか。彼女は未だネットの海にあるリアーナの事件直後の写真を見たことがあるのだろうか。自分の父親がリアーナをボコボコにした過去についてどう思っているのだろうか。学校で、「お前の父ちゃん、リアーナのことボコボコにしたらしいな」とか言っていじめられていないだろうか。

 

先にちょっと名前が出たマイケル・ジャクソンも、私生活でのスキャンダルが大きく取り上げられた一人だ。彼の場合、未成年との性行や児童ポルノ所持などの被害者を名乗る者たちからの訴えは数多くあったが、どれも証拠不十分で最終的に有罪判決が下るなどの形で事件が成立したケースはない(多分。話題が豊富過ぎて追いきれてないかも、、、)。

私は、マイケルは本当に無実なんだろうなと思っている。おそらく普通の大人の感覚だと、「少年と成人男性の間に友情が芽生える」よりも「少年を食い物にしようとする小児性愛者」という構図の方が、不自然なほど親密な交流を大人のマイケルと子供たちが持つことに対する説明として受け入れやすいんだと思う。

多少の肩入れも相まって、彼の音楽は素直に楽しんで聴く事が出来る。

 

マイケルついでに、彼の後年の活動中頻繁にコラボレートしていたR. Kellyについてもちょこっとだけ触れておきたい。彼の場合、相当数の女性を監禁、洗脳して「セックスカルト」のようなものを作っていた事が警察の捜査で明らかになり、『Surviving R. Kelly』というドキュメンタリーで世間に広く知られることとなった。マイケルの時とは異なり、R. Kellyは複数の事件で起訴されており現在もその裁判は続いている。

上記で列挙したケースとRのケースで一つ大きく違うことがある。彼のフィールドである音楽業界が、Rに対して毅然とした態度で制裁を加えたのだ。Spotifyはあらゆる公式プレイリストから彼の曲を削除した。レディー・ガガは彼と共作した楽曲”Do What U Want”を、Pussycat Dollsはコラボした”Out of This Club”をそれぞれストリーミングやダウンロードサイトから削除した。

現在、R. Kellyはどのレーベルとも契約出来ずに細々とライブ活動をしているらしい。

 

スキャンダルを起こすのは、何も人に限ったことではない(いや、まあ人が起こすものではあるのだけれど、主体となるものが、という意味で)。

NFL、ナショナル・フットボール・リーグ。アメリカで最も人気のスポーツであるアメリカンフットボールのプロリーグである。2016年、コリン・キャパニックという黒人選手が試合前の国家斉唱の際に起立をしなかったことがニュースとなった。今では日本でもBlack Lives Matter運動の存在は知れ渡って久しいが、当時アメリカでは既にトレイヴォン・マーティン射殺事件等を発端として「未だに黒人は不当に差別され、命の危険に晒されている」という認識(であり事実)の元、アフリカンアメリカンの命と人権の尊重を求めたデモ運動が盛んに行われていた。コリンにとってもこの機運は人ごとではなかった。彼は「今のアメリカには、俺の愛国心を捧げるだけの価値はない」という事を悟り、星条旗から目を背けて膝をつくことで自分の信念を表明した。

彼の行動は賞賛と批判両方を呼んだが、実利的な面で言えば彼は苦境に立たされた。事件まで所属していた彼のチームは翌年の契約更新をしない選択を取った。フリーエージェントとして他のチームとも交渉を行うも、2021年現在に至るまで彼と契約を交わしたチームはない。事件後、NFLは国歌斉唱の際に選手が起立して国旗に対して敬意を表することを義務化したが、内外からの猛反発に遭いすぐにそのルールを撤回している。しかし、「我々は選手の信念を尊重し、国歌斉唱の際に起立する自由もしない自由も保障する」と定めたはずのNFLからコリンが締め出しを食らっていることは紛れもない事実である。そして2019年のスーパーボウルのハーフタイムショーにてNFLは自分達のしたことについて思い知らされることになる。結果的にマルーン5がその重責を担ったその年のハーフタイムショーだが、NFLはリアーナを第一候補に考えていたらしい。「リアーナがNFLからの依頼を断った」というニュース自体がお笑い草だ。アフリカンアメリカンの選手が人種差別に対する抗議の意を表明したことに対して締め出しを行っておいて、よくもリアーナにオファーが出来たものだと感心してしまう。NFLはその後もP!nkをはじめとした何組かのアーティストにオファーをしたらしい。ゴシップサイトで見た眉唾もののニュースだが、NFLにとってマルーン5は20番目の候補だったそうだ。大役を引き受けたマルーン5も大変だったろう。彼らがハーフタイムショーを飾ることが発表されてから、ネットでは彼らにハーフタイムショーを断るように働きかける署名運動が起こる始末だった。ハーフタイムショーはメインのアーティストと同じくらいゲストアーティストが豪華であることも有名だが、このバンドと共演したことのあるCardi BやMary J. Bligeといった有色人種アーティストらはこの機会を悉く袖にした。本番、Travis ScottとBig Boiという、このバンドと何の縁もない2人のゲストを迎えて奇妙で気まずい空気を終始放ちながら、それでもマルーン5は彼らなりのベストを尽くしたと思う。しかしそれはNFLに抗議する民衆側も同じだった。2012年のマドンナによるハーフタイムショーから年々右肩上がりだった視聴率は、この年ここ10年で一番低い数字を叩き出してしまった。

 

一つのアート作品や一人のアーティストの話をする時、それらを取り巻く環境やその裏にある信条などを切り離して論じる事は、成分表示の全くない食べ物を口にするのと同じくらい表層的であり、自分自身にとって危険なことであると言わざるを得ないというのが私の持論である。

絵画を美術館で見る時、本を読む時、そしてもちろん音楽を聴く時、ほとんどの場合そこには作者の名前がある。何という名前の人が生み出した作品なのかは、アート作品に付随する最初の二次的情報になる。アートを享受する次元が上がれば、当然二次的情報は増えていく。どういった時代背景の元にその作品が生み出されたのか。作者のインスピレーションは何だったか。その作品が後に与えた影響とはどんなものだったのか。一つの作品を好きになればなるほど、それを取り巻く情報を知りたくなるのが人の心というものだろう。それは作家、音楽家、映画監督や俳優などのインタビューを掲載している雑誌が売れて、ネット記事が読まれ続ける大きな理由の一つである。

ましてや、アート作品を享受する我々は人間である。機械的に「この作品を楽しむ時はアーティストのことは考えないようにしよう。あの作品を楽しむ時はアーティスト本人とセットで考えよう」などと綺麗に線引き出来るような器用さのある人の方が珍しいだろう。意識的であるにしろ無意識的であるにしろ、芸術作品はその作者やそれを取り巻く環境といった文脈を含めて読み解かれることの方が圧倒的に多いし、それが芸術の魅力でもあったりする。だからこそヒップホップ文化ではディストラックでのビーフが常にホットな話題となるし、私生活で夫婦やパートナーである歌手同士がジョイントツアーやジョイントアルバムを制作するのが話題になったりする。

私もクリス・ブラウンの音楽は好きだったが、彼がリアーナ暴行事件の後初めて公式リリースした新曲名が”I Can Transform Ya”だと知った時は、「え、それって『リアーナみたいに顔をボコボコに殴って形変えてやろうか』ってことですか?」と思わずにはいられなかった。それは決して「アイツの音楽を私生活と結び付けてやろう」と意識的に考えた結果ではない。ブラウン氏が「I can transform ya, I can transform ya」と歌う度に、勝手に私の脳裏に事件直後のリアーナの痛ましい写真が、夏の夕立に伴う稲光のように突然飛来して、引き剥がすことの出来ない残像のように曲そのものの印象に重なるのだ。

 

 

その上で、小山田なんちゃらという人間が東京五輪の開会式に使用される楽曲制作に携わっていたという事実について。

 

この小山田なんちゃらがどういった音楽を作ってきたのか、自分はほとんど知らない。自分のパソコンに入っている音源をワード抽出したところ、Stingのアルバム『Sacred Love』の日本盤ボーナストラックで”Moon Over Bourbon Street”のリミックスを手がけていたものがかろうじて確認出来た唯一のものであった。決して悪い出来ではなかったが、Stingのアルバムの収録時間にわざわざ付け足す程の何かを提供しているという印象を抱くことはついぞなかった。

例のロッキンオンやクイック・ジャパン誌面に記載されている、おぞましい犯罪行為の数々を知るずっと前のことだった。

 

「平和の祭典に相応しくない」「障害者を笑い物にしていた人間がオリ・パラに関わるなんて、国民をバカにしている」「日本の恥」等、様々な言葉でこの件に関する意見が交わされている。

 

私も同じ気持ちである。

なので、改めて彼を糾弾する言葉をこの場で書く必要は、今更ないかなと思う。

 

代わりに一つだけ、今一度ハッキリと強調しておきたい事実がある。

 

この小山田なんちゃらが何をしたか、それをロッキンオンとクイック・ジャパンがどういった扱いで雑誌の記事にして利益を得たか。そういったことを知りながらこの小山田なんちゃらの音楽を聴いている人々へ。今回の件に関してこのなんちゃらを擁護するコメントを残している人々へ。こういった事件を知りながら番組にコイツの音楽を起用した製作者、コイツをブッキングしたフェス関係者

 

 

 

おまえらも同罪だ。

 

 

 

 

アートとその作家を完全に分けることが不可能に近いのと同じように、アートを享受することにおけるパーソナルな面とソーシャルな面を切り離すことも不可能だ。

人の行動というのは、その当人がどう考えているかに関わらず、すべからく社会的な意味を持つ。

芸術に接することは、鑑賞者にとってとても個人的な体験である。どんな音楽を好み、どんな文体の小説を読むか。芸術と向き合う時、そこには作品と鑑賞者だけしか存在しない宇宙が出来上がる。一方で、その1対1の関係を外側から見た時、その閉じた関係性の中で成立している芸術体験に社会的な意味合いが生じることは避けられない。

西寺郷太氏はプリンスについての著書の中で「僕がプリンスのCDを買うために払ったお金、コンサートチケットを買うために払ったお金のほんの一部でも、プリンスが新曲を作るために新しい楽器やドラムマシーンを買うためのお金として使われているとしたら、それって僕がプリンスの芸術に貢献出来ているとも言えるのではないか」と(いうような内容のことを)書いている。

私が、例えばビヨンセのCDをここ日本で1枚買ったとする。そうすると、私がビヨンセの音楽を聴くことが出来るというパーソナルな出来事とは別に、世の中には「日本でCDとしてリリースされたビヨンセの音楽にお金を出す人が一人いる」というソーシャルな事実が残る。そしてそのソーシャルな事実は今後のビヨンセの日本に於ける販売戦略や来日ライブをどの程度の規模で行うかといった興行戦略を立てる上での一つの指標になる。

私が自分のために行った個人的行動が、世界の動きを決める一端を担うのだ。

 

例えば、どこかの誰かが小山田なんちゃらの音楽をSpotifyを使って一回聴いたとする。そうすると、再生数に応じてこのなんちゃらにはロイヤリティが支払われる。

このなんちゃらの音楽がテレビ番組に使われたら、楽曲制作の報酬とは別に「シンク・ライセンシング料」として視聴者数や視聴回数に応じてやはりロイヤリティが支払われる(ここは契約によって変わるので、あくまでよくあるパターンとしては、の話である)。

 

お金の話だけではない。

今回の報道によって、初めてこのなんちゃらの名前を知った人もいるだろう。その中には、もしかしたら今回の事の顛末を見て「なるほど。これくらいの『いじめ』をしたらこのくらいの社会的制裁があるんだな」と判断する小学生中学生がいるかもしれない。その社会的制裁も、もしかしたら度合いによっては「バレてもこの程度じゃんw」と思われるかもしれない。

 

五輪の後も、このなんちゃらはフジロックのグリーンステージに立つ(つもりである)。二日目大トリRADWIMPSの前、今年は日本勢のアーティストしか出演しないことを勘定に入れても、そこそこの大物扱いだ。

 

 

 

 

虫唾が走る。

 

 

 

 

「作品に罪はない」という言葉は事実だと思う。しかし、その罪のない作品を誰かが享受しようと行動を起こした時、そこには「作品とその作者に付随する情報を認めた人間が一人現れる」のも事実の別の側面として確かに存在する。

 

この小山田なんちゃらは、彼が作った罪のない作品が人々に与えた感動の対価として発生した報酬や賞賛を受けるに値する人間なのだろうか。

 

我々は、日々あらゆる場面で、個人的な決断に対して周囲から社会的な意味を勝手に与えられながら生活している。「そんなつもりはない」などという言葉は、事実の前では、件のなんちゃらが出した謝罪声明と同じ、何の意味も持たない空疎で見苦しい言い訳でしかない。

 

私は、どういった芸術作品に触れるかを含めて、日々下す大小入り混じった決断が持つ意味に対して、自覚的でありたいと思う。