GoldenPhoenixRecords

Rachelle・水沢よりアナタへ

自分には何が出来るのか

アイルランドの兄弟バンドThe Corrsの曲に「What Can I Do」というものがある。手放してしまった相手に「どうしたら私はあなたを幸せに出来るの?どうしたらあなたに気にかけてもらえる?」と健気に訴えかける静かでアイルランドらしい瑞々しさがある楽曲だ。

 

結局のところ、そんな問いに答えなどないのだ。恋も仕事も、そして創作活動も。「誰かを幸せにするため」というのが第一の目標になった時、人は自分自身のモチベーションの根底を非常に危ういものにしてしまっていると常々思っている。

そっちの方が生きるうえで簡単な時はある。「あなたの喜ぶ顔が見たくて」「誰かに評価されたくて」「いいねがほしくて」。

気持ちはめっちゃくちゃわかる。自分がしたことによって誰かに「嬉しい」「あの仕事、よかったよ」「あの曲、すごくよかった」って言われる時の快感は代替の効かない心地よさがある。まるで自分という人間の殻を破って、自分の行動が、仕事が、作品が、人の営みの最も崇高な部分の一部に昇華したかのような。ざっくり言えば「認められた」感覚。

「承認欲求が〜」などと斜に構える必要は全然ない。集団で生きている人間という生き物の性質上、その集団に受け入れられる経験というのは自分自身の健康的な活動のために不可欠だと思うから。

 

自分も、音楽活動やブログや小説を世に解き放っている身としてはそういった承認欲求がある。しかし何かしらを世に出す度に、もっと言ってしまえば制作段階から「この曲はあの曲ほどうまく出来ていない」「この文章はあの人の文章よりもとっちらかって薄っぺらい」と感じて落ち込むことがめちゃくちゃある。

 

上には上がいる。得意不得意はある。

それでいいじゃないか、それが人だ。他人と比べずに自分のベストを尽くそう。そう言うのは簡単だ。そしてそれを心から信じて我が道を行く事がどれほど難しいことか。

 

そこで思ったの。「アタシが目指すところ」って、どこ?「アタシが歩みたい道って、何?」って。

ブログや楽曲制作、小説執筆は今のところ一切お金になっていない。リーチしているオーディエンスも本当に少数だ(その中でこれを読んでくれているアナタ、本当にありがとう!大好き!!)。

そうなってくると、こういった創作活動でアタシがどこを目指すべきかが自分の中でも曖昧になって、最終的には「こんなことして何になるんだろう」って気持ちになる。

 

で、思い出したの。

アタシが洋楽を聴くきっかけになった出来事を。

もうずっと前のこと。家で一人でいる時になんとなくテレビを点けたらMステをやっていて。ちょうど歌が始まったところだったんだけど、アタシはそこに映っているアーティストを見てぶっ飛んだわ。葉っぱで出来たビキニ姿、髪型はみんなド派手で肌は小麦色。Destiny’s Childが「Survivor」をパフォーマンスした伝説回だった。

当時、英語なんかわからなかったし彼女たちが何者なのかも全く知らなかった。ただ「アモッソバーバー」というよくわからないけどめっちゃくちゃ耳に残るフレーズとこれまで聴いたこともないような力強い音楽、それに強烈なビジュアルイメージに完全にノックアウトされた。ビヨンセが誰か、これまで何曲のヒット曲があるか、プロデューサーは誰か。そんな情報など全くなくただ目の前に出された音楽とアーティストの御姿とダンスだけ。

アタシを音楽との恋に落とすのにはそれだけで十分だった。最強にポップでキャッチーなルックスと楽曲、そこにあるパワーに圧倒された。語彙力なんかどこかにすっ飛んでたわ。

 

アタシが目指すのはそこ。アタシにはそれしか出来ない。

どこまでもポップでキャッチー。アタシにBjorkRadioheadみたいな曲は書けないし、色んなメディアに寄稿している#BitchVogueメンバーみたいに凝ったカッコいい文章は、多分書けない。

だからこそ、アタシは自分が聴きたい音楽、自分が得た感動、そういったものをストレートに表現していこうと思う。

 

「誰かのため」「誰かみたいに」っていうのは無理。そんな中でもしアタシの一番コアの部分から出てくるものに触れて「あ、これ良いな」って思ってもらえることがあったりしたら、それこそが本当の「アート体験」なんじゃないかって、そう思うの。

 

久々におセンチな気分になってしまったわ。

 

今日はこのへんで。

 

 

P.S. Don’t forget to stream “Chapter 0: The Awakening” by Brand New Animals